敗戦記念日での一考察。
最初にお断りしておきますが、私は、政治的には、無党派というか、特定の政治勢力の支持、応援するところはありません。
私の父は、生きていれば、103歳、95歳でぽっくりと心不全で逝きました。戦時中は、衛生兵として、中國大陸を転々と移動。終戦間際には、広島にもいたそうですが、原爆の投下前に、これまた、移動命令で、広島にはいませんでした。大体において、生涯を通じて運の強い人でした。戦後は、私達、子供にも戦争の惨さ、人としての理性の欠如、そして、理不尽さを話してくれていました。手紙、勲章類、そして、飯盒など、軍隊下がりの物品も沢山あり、戦後の暮しの中で役立てていたと思います。
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今日は、8月15日、敗戦の日。で、主に、首相、閣僚の靖国神社参拝に絞っての考察です。乏しい知識ですが、太平洋戦争への突入は、当時の世界情勢を考えれば、政治的指導者には、法理論上は、瑕疵は無いと思います。純然たる民主主義とは今思えば言えないと思いますが、国民から選ばれた国会議員が内閣を形成し、天皇陛下が、それを認めました。日中戦争、太平洋戦争への対応も法に法っていたと思います。メディアもこぞって後押ししていたと思います。勿論、国民もね。その結果としては、国土を失い、多くの国民の生命、財産を奪い、そして、戦争に負けました。靖国神社は、明治以来の軍人の戦争での死に対する、鎮魂と慰霊の場所であります。宗教施設の一つではありますが、明治以来の政治的運用の一環としての施設です。で、この靖国神社に祀られている人々に、宗教心を持ち、感謝と慰霊の念を持ち、参拝するのは、日本人の何人も妨げたらいけないと思います。で、現実としては、戦犯と呼ばれる人達が合祀されている為に、天皇陛下、首相、閣僚の面々が参拝すると外国から抗議と苦情がなされます。で、私が思うに、戦犯と呼ばれる人々は、戦争責任は無いと思いますが、戦争敗戦責任は、大いにあります。東京裁判は、法的に見れば彼らに罪は無いと思います。しかし、多くの国民の生命、財産を失わせた責任はあります。日露戦争での、東郷平八郎、乃木希典の責任を問う声は、ありません。なぜなら、彼らは、曲がりなりにも勝者の指導者ですから。戦犯と呼ばれる人々には、敗者の指導者としての責任はあります。また、戦争によって、戦地、内地での戦闘により死亡したのでは無い。当然に、靖国神社へ祀られるべき人達ではありません。ですが、現実には、政治的な思惑があったのでしょう。戦犯処刑での死後、直ちに靖国神社に祀られていない事を思えば、何らかの思惑が当時の宮司にあったのでしょう。それ以後、現実に天皇陛下がお参りに行かなくなったのも事実です。私は、個人的には、天皇陛下、首相以下、閣僚、国会議員の参拝はすべきだと思っています。海外の批判を気にする必要はありません。ただ、参拝の前には、正式に国民に向かって、メディア、文章により、「敗戦の責任も自ら果たす事無く、外国勢力により、死亡させられた人々の鎮魂と慰霊をお祈りする心は、全く、持っていません。国民への敗戦の責任は、国民の慰霊の念を持たれる存在ではありません。」と宣言して欲しいと思います。そしたら、海外であれ、国内であれ、こんなに問題化、批判を浴びる事も無いでしょう。
話は、違う様に見えるでしょうが、勝ち負けのある勝負事には、双方に制度的瑕疵がある訳では無く。負ける勝負をした敗者には、多大の敗者責任が生じるのです。ましてや、国民による、裁判が必要であったろう。その結果として、有罪、無罪を問わず、永遠に何らかの指導者になってはなりません。
王監督、長嶋監督でさえ、勝負の世界から、敗者として認定されたのなら、敗者責任を取らされ、地位のはく奪にあっているのです。もう一度言う、東郷平八郎、乃木希典は、神として崇められている。そして、多くの参拝者がいる。
私、もうすぐ73歳になります。政治的運動もしません。
ですが、戦後の混乱期に、また、それ以後の、日本の成長期に
日本人の一人として、生きて来た、生き様見たいなものは、時々は、書き留めておきたいと思います。 宇野 勝。 敗戦の記念日によせて。